新玉川線とは?/ アットローン
[ 808] 東急田園都市線 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E7%94%B0%E5%9C%92%E9%83%BD%E5%B8%82%E7%B7%9A
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この記事の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。 田園都市線(でんえんとしせん)は、東京都渋谷区の渋谷駅から神奈川県大和市の中央林間駅に至る東京急行電鉄が運営する鉄道路線である。 なお、渋谷駅から二子玉川駅まではかつて新玉川線(しんたまがわせん)という名称の別路線であったが、現在は田園都市線の一部となっているためこの項目で記述する。 繁華街の一大ターミナルである渋谷駅から、郊外の住宅地域を経て中央林間駅を結ぶ純粋な通勤・通学路線であり、東横線と並ぶ東急の基軸路線でもある。 路線の名称は、東急が田園都市線とともにE・ハワードの提唱した田園都市構想を用いて建設を行った「多摩田園都市」に由来する。溝の口駅以西は、この「多摩田園都市」の中核をなす交通機関として建設された。多摩田園都市地域のニュータウンとしての発展とともに同地域の最も主要な交通機関として機能している。 また、渋谷駅から二子玉川駅までの区間は玉川線を継承する代替路線として建設された地下路線で、開業から2000年8月5日までは新玉川線と呼ばれていた。線路の直上にある国道246号および首都高速道路3号渋谷線の周囲はビル街となっているが、さらにその周囲は世田谷の閑静な住宅街となっており、この区間はこれらの地域の住民の足でもある。 現在の田園都市線は、多摩田園都市地域を走行する溝の口駅以西の区間と、旧新玉川線である渋谷駅から二子玉川駅までの地下区間および両区間より以前からあった二子玉川駅から溝の口駅までの区間が一体となって形成されている。 近年は、多摩田園都市地域の人口の増加や、あざみ野駅において接続する横浜市営地下鉄沿線の港北ニュータウンの人口増加とともに混雑が激しくなり、朝ラッシュ時の混雑は日本の大手私鉄路線中2位(池尻大橋→渋谷)となっている。 列車は、一部の大井町線直通列車を除き、10両編成で運行される。その他、一部時間帯で女性専用車両を設定しているほか、一部列車には6ドア車両を連結している。詳しくはこちらの項目を参照。 起点の渋谷駅では東京メトロ半蔵門線と相互直通運転を行っているが、ほぼすべての列車が直通するなど一体性が高く、事実上同一の路線として運転が行われている。なお、半蔵門線は押上駅で東武伊勢崎線・日光線とも相互直通運転を行っており、田園都市線の一部列車は東武伊勢崎線久喜駅・日光線南栗橋駅まで直通運転を行う。しかし日中の30分おきに運転される急行は中央林間発の押上・清澄白河発着の普通と同様、押上・渋谷で種別変更はなく三社通じて急行表示である。 なお、2000系を始め一部の電車には関連機器を搭載していないため、東武線への直通はできない(正面に「K」と書かれた丸いステッカーが貼付されており、K編成、あるいはサークルK編成と呼ばれている)。 全体として勾配の多い路線であるが、曲線は緩く線形は比較的よい。地上区間は急なカーブのある二子玉川駅東側〜高津駅間、梶が谷駅と江田駅、鷺沼駅の西側および長津田駅の前後は徐行するものの、その他はほとんどの区間を100km/hで走行し、さらに藤が丘駅前後とつくし野駅以西は110km/hで走行する。また、地下区間は最高90km/hで、急なカーブのある桜新町駅東側と渋谷駅西側はおおむね65km/h、および島式でホームの狭い駒沢大学駅は75km/hで走行する。 起点の渋谷駅から二子玉川駅の手前までは、武蔵野台地の地下を走る地下路線である。この区間はかつて新玉川線という名称であった。 二子玉川駅付近で国分寺崖線を出口として地上に現れ、同駅から溝の口駅までは多摩川およびその氾濫原を主に高架で進む。この区間の両側は二子から溝口にかけての比較的古い住宅地を貫いている。また、この区間はかつて大井町線と呼ばれていた。なお、二子新地駅から梶が谷駅までの駅間が短いのは、敷設当時、川崎市から設置要求があったためである。 溝の口駅以西は起伏の多い多摩丘陵を貫通し、相模原台地に取り付く山岳路線である。カーブ、トンネル、切り通し、あるいは高架が連続し、地表を直線的に進む区間は少ない。列車から見ると、列車と地表の位置関係は目まぐるしく上下に変化しているように見える。この区間の沿線は田園都市線とともに建設された多摩田園都市地域にあたり、沿線は比較的新しいニュータウンの住宅地が広がっている。車窓の両側には丘という丘に住宅が建設されているのが見えるが、公園や街路樹が多いため、建てられている住宅の数の割に緑を比較的多く感じることができる。 1966年(昭和41年)4月1日には、二子玉川園(現・二子玉川)〜二子新地前(現・二子新地)間の高架化とともに二子橋上の単線併用軌道が複線の専用橋に移設され、複々線化工事が始まるまでの二子玉川駅〜溝の口駅間の形となる。 1966年4月1日に田園都市線溝の口駅〜長津田駅間が延長開業された。これ以後の延伸部分は多摩田園都市へのアクセス路線として建設された路線である。これは東京急行電鉄が中心になって開発を行っているもので、日本道路公団や住宅・都市整備公団など間接的に公的資金は投入されたものの、民間企業主体で行われた都市開発事業の一つである。 開業当初は4両編成であったが、日中は鷺沼駅で分割・併結作業が行われ、鷺沼〜長津田間は2両編成で運転された。しかし、沿線開発の進展に伴い、短期間でこの措置は中止されている。その後、乗客の増大と、都心へのアクセスの悪さから新玉川線の建設へと動き出す。 この路線は当初、営団地下鉄(現・東京メトロ、以下本項において同じ)銀座線を渋谷から二子玉川園に延長する形で計画されたが、後に東京都市計画都市高速鉄道第11号線の一部に変更されて建設された(渋谷駅から先は営団半蔵門線)。この計画変更の理由には、第一に軌間や集電方式の違いから二子玉川園以西に乗り入れることができず大井町線のバイパス効果が薄まってしまうこと、第二に銀座線の混雑が相当激しく、これに直通させるとなると、銀座線側にもトンネルの拡幅および新設(付け替え)をした上で編成増強などによる輸送力増強が必要であり、そうなると新線建設と同等程度の費用が掛かることが判明したことが挙げられる。私鉄にとっては資金的にとても困難な工事であるが、五島昇の政界への働きかけもあり、鉄建公団P線方式を初めて利用した路線となった。 前途の計画では、大井町線は旗の台から池上線に入り、戸越銀座〜大崎広小路間の桐ヶ谷から分岐させ、東京都市計画都市高速鉄道第6号線に乗り入れる計画であった。詳細は東京都市計画都市高速鉄道第6号線の一部として建設された都営地下鉄三田線#建設経緯を参照。 新玉川線の建設が計画された際に、三軒茶屋〜用賀間は当初蛇崩川の上を高架で走り弦巻を経由するルートが計画されたが、住民の反対が強く、またルートの違う旧玉川線が残り首都高速道路3号渋谷線建設の支障となるため、全線が旧玉川線の地下を走ることとなった。このことで騒音や日照公害は明るみにならなかったが、後の(関係者も想定外だったと各方面で語っている)沿線人口増加による混雑激化への対応は、両数増強(建設時に最大10両まで対応としていたのが救いとされる)や新ATC導入による閉塞区間短縮(前の列車に接近できる距離を短縮し、増発を可能にする)などに限られた。 新玉川線開通当初は新玉川線と田園都市線の直通運転は行われなかったが、開通7ヵ月後の1977年11月には日中限定の直通快速の運転を経て、1979年(昭和54年)8月12日に二子玉川駅以西の田園都市線から新玉川線への全面直通運転を開始した。これにより大井町駅から二子玉川駅間の田園都市線は同日から大井町線に改称した上で運転系統を分離した(同路線は溝ノ口線を編入する以前に戻ったことになる)。この結果、田園都市線から新玉川線を経由し、渋谷駅からさらに半蔵門線へ直通運転を行う現在の運転系統が確立する。半蔵門線側は直通運転開始当初は永田町駅止まりであったが、1982年には半蔵門駅、1989年に三越前駅、1990年に水天宮前駅と順次延長されていった。 二子玉川駅〜溝の口駅間については、2008年(平成20年)度末の供用開始を目指して大井町線を延長する形での複々線化工事が行われている(詳細はこちら)。 2006年(平成18年)3月18日 - ダイヤ改正。東武伊勢崎線の相互直通運転区間を久喜駅まで延長。また土曜・休日に限り、大井町線に直通運転する急行を設定し、南町田駅に全急行列車が停車するようになる。 朝ラッシュ時には長津田〜渋谷間で1時間当たり29本(平均2分5秒間隔)という超高密度運転で対処しているものの、鷺沼から渋谷にかけては電車が渋滞する「ノロノロ運転」となっている。特に、乗降客が非常に多い渋谷駅は、島式ホーム1面しかない上、地下深くに位置し階段が狭いため、大量の乗客を捌ききれていない。ここでの乗降に時間が掛かることにより、後続列車がホームに進入できず駅手前で待機を強いられる、いわゆる「ダンゴ運転」状態に陥りやすく、慢性的な列車遅延の原因になるなど、本路線のネックとなっている[要出典]。 さらに渋谷駅には表参道側に引上線が存在しない。半蔵門線側に渡り線が用意されているものの、前述した超高密度運転のため夜間の一部を除いて渋谷始発の折り返し列車を設定することが容易ではなく、夕方から夜間の列車増発が難しく、この時間帯の混雑も激しくなっている。そのため、利用者は朝の混雑に加え、帰宅ラッシュ時にも激しい混雑に悩まされる状態となっている。 田園都市線は、設備の都合上10両編成以上に車両を増結をすることができない。そのため、増結が限界に達して以降は信号システムを改良し、同程度の長さの列車を走らせる路線では最も短い部類に属する2分5秒間隔で運行しているが、混雑の解消には至っていない。 編成の増強も増発も限界に達しているが、地下区間の複々線化は莫大な事業費が必要である上、用地確保も困難なため、ほぼ不可能に近い。その上、都心側ターミナルである渋谷駅の拡張も同様に土地利用上極めて困難である。 また、日本の総人口は2005年頃から減少傾向にあるが、田園都市線沿線は2025年頃までは、なお人口増加を続けると予測されており、このため東急は混雑緩和対策を図る、としている[4]。 現在は地上の一部区間の複々線化や、この複々線への大井町線の乗り入れなどの方法による輸送力増強などの対策が行われている。 二子玉川〜溝の口間の複々線化工事を含む大井町線の改良・延伸工事が2008年度中の完成を目標として進行中である。この工事が完成すると、同線が溝の口まで延伸されるとともに同線内において急行運転も開始され、自由が丘・大岡山・大井町など他の都心への路線との接続駅までの所要時間が短縮される。特に大岡山で接続する目黒線では2006年から急行運転が開始されており、大井町線と目黒線にバイパス路線としての機能が付与されることになる。これらによって、朝ラッシュ時に都心へ向かう乗客の一部を田園都市線利用から大井町線経由での利用へと分散させ、混雑率の低下が見込まれている。なお、この複々線を鷺沼まで延長させることが検討されている。 さらに、2008年3月30日には横浜市営地下鉄グリーンラインが開業予定のため、主にあざみ野駅経由で都心方面に通勤・通学する乗客が横浜市営地下鉄グリーンラインを利用し、東横線日吉駅を経由し都心方面に行く乗客が増えると見込まれる。 2005年2月14日より乗降時間の短縮と混雑感緩和を図るため、5000系に6ドア・座席格納車両の連結が行われている。全14編成ある5000系のうち12編成について、渋谷駅で階段があるため特に混雑する5・8号車に6ドア・座席格納車両を連結した上で、最も混雑する時間帯の電車に充当している。くわしくは「6ドア・座席格納車両」の項を参照のこと。 2007年4月5日のダイヤ改正より、朝ラッシュ時の急行のうち、午前8時台に渋谷駅に到着する13本を「準急」に変更した。これは、急行の停車駅に加えて、二子玉川〜渋谷間は各駅に停車する種別である。これにより、この時間帯の二子玉川→渋谷間の所要時間は急行13分、各停17分であったのが全列車15分になった。この改正は一部の新聞やテレビ番組などでも報じられ、路線の主力である速達列車の格下げということで話題となった。 これは改正前まで各駅停車の乗客が桜新町駅における急行の通過待ちを嫌い、急行電車に乗客が殺到することにより混雑率の増大ならびに列車遅延が発生していたため、二子玉川〜渋谷間で全列車を各駅に停車させ通過待ちをなくして混雑率の均等化を図り、路線全体の遅延を抑制することを狙ったものである。結果として、東急は2007年5月時点の実績では雨天時などを除く平常時において前年度同時期より遅延が1分程短縮されたと発表している[5]。この結果を踏まえて、2008年3月28日からは準急の運転時間帯を10分拡大する予定である。 なお、同様の施策は東京メトロ東西線でも実施されており、朝ラッシュ時の優等電車を通勤快速に統一し、混雑を均一化させている。 昼間時は急行1本と各駅停車2本が15分サイクルで運転されている。昼間時の急行は桜新町駅で各駅停車を追い抜き、鷺沼駅と長津田駅で各駅停車に連絡する。 一部の列車を除き、ほぼすべての列車が渋谷駅より先東京メトロ半蔵門線と相互直通運転を行い、そのうち約4割がさらに先の東武伊勢崎線、日光線との相互直通運転を行っている。 東武線まで直通する列車については、東急線内の種別と東武線での種別は必ずしも一致しないため、列車の種別表示は以下のように変更される。 上り列車の場合は、渋谷駅に到着した時点で、東武線直通列車については東武線内の種別である「急行」または「準急」に、半蔵門線内終着の列車は無表示に変更する。 下りの場合は、押上駅に到着した時点で東急線内の種別である「急行」または無表示(各駅停車)に列車種別を変更する。なお、半蔵門線内始発の列車は始発駅から田園都市線内の種別で運行する。 また、早朝と夜間には出・入庫のため鷺沼と大井町線を直通する列車が各駅停車として数本運転されている。また、土曜・休日には田園都市線と大井町線を直通運転する急行が3本運転されている。 昼間時は1時間あたり4本(15分間隔)が運転される。上りの場合は渋谷到着が毎時28・58分の電車は半蔵門線押上止まり、13分の電車は東武線直通急行(渋谷での種別変更なし)久喜行、43分の電車は東武線直通急行(渋谷で種別変更なし)南栗橋行となる。下りの場合は、渋谷発車が毎時15・45分となる電車が半蔵門線押上始発の電車、00分の電車が東武線南栗橋始発(押上で種別変更なしで東武線内も急行運転)、30分の電車が東武線久喜始発(同)の電車である。なお、大幅なダイヤ乱れがあった際には急行の運転が中止され、全列車各駅停車として運転される。 1983年1月22日から設定された。設定当時は平日の朝夕のみの運転であった(平日昼間時および休日は快速を運転)。さらに、全列車が長津田駅発着で中央林間駅までは運転されていなかった。また、田園都市線快速が新玉川線も優等運転するという位置付けであり、田園都市線内では急行と快速は停車駅が変わらなかった。 現在の急行運転の形が成立したのは1996年4月26日のダイヤ改正からである。この時、快速を急行に統合して優等列車はすべて急行とし、また同時に中央林間駅発着の設定も行われ、運転区間が全線に拡大された。当初は昼間時のみ(渋谷発平日9〜17時、土曜・休日は同9〜19時)だったが1999年12月3日のダイヤ改正以降夕ラッシュ時や夜間にも拡大され、現在では大半が中央林間発着となっている。 2000年7月15日から夏休み・年末年始・ゴールデンウィーク中の土曜・休日などにグランベリーモール最寄り駅の南町田駅への臨時停車が行われていた。これに対し、利用者から「いつ停車するのかわかりづらいので、臨時停車を定期化してほしい」という要望があったため、2006年3月18日のダイヤ改正から土曜・休日限定で定期に停車している。 運転開始以後長らくあざみ野駅には停車していなかったが、1993年に横浜市営地下鉄の延伸で乗換駅となって以降、利用客が増加し2000年に横浜市から受けた要望に応え、2002年3月28日から停車駅に加えられた。 運転開始当初は朝ラッシュ時に3本のみの運転で、朝ラッシュ時には急行のほかに快速も運転されていた。その後利便性がよいため利用客が増加し、ダイヤ改正ごとに増発されていった。 2007年4月5日のダイヤ改正より、朝ラッシュ時に運転されていた上り急行のうち、朝8時台に渋谷駅に到着する13本については後述する準急に置き換えられた。 2007年4月5日に行われたダイヤ改正から設定されている種別である。急行列車への乗客の集中を緩和し、それにより列車遅延の抑制を図ることを目的として、それまで朝ラッシュ時に運転されていた上り急行のうち、朝8時台に渋谷駅に到着する13本(この時間帯は急行・各駅停車が交互に運行されていた)をこの種別に置き換えた。 停車駅は、長津田〜二子玉川間は急行と同じ停車駅で、二子玉川〜渋谷間は各駅に停車する。なお、後述するとおり2008年3月28日より中央林間始発の準急が設定されるため、中央林間も停車駅に加わることとなる。なお、停車駅はかつて設定されていた快速停車駅にあざみ野を加えたものである。同駅は快速廃止後に急行停車駅に追加されたため、「二子玉川までの旧新玉川線区間は各駅停車、二子玉川以南が急行の停車駅」という点ではかつての快速と共通している。 現時点でのダイヤでは、長津田から半蔵門線までの運転(うち7本が押上行き、5本が清澄白河行き)が基本であるが、1本は渋谷駅で種別を急行に変更して久喜まで運行される。 また、2008年3月28日より、渋谷駅到着7時台の急行まで従来の準急運転時間帯を拡大し、運転本数が従来の13本から16本となる予定。この改正に伴って、中央林間始発の準急が誕生することとなる他、3社通して準急の運転が始まる(長津田7:29発北越谷行きのみ、東京地下鉄半蔵門線内は各駅停車。渋谷で種別変更なし)。 昼間時は1時間あたり8本運転。昼間時は桜新町駅で急行の通過待ちおよび鷺沼と長津田の両駅で急行の待ち合わせを行う(鷺沼のみで待ち合わせを行う各駅停車と桜新町で通過待ちをし長津田での待ち合わせを行う各駅停車が交互に運転される)。朝ラッシュ時には、これに加えて梶が谷・江田・藤が丘(上りのみ)の各駅でも急行・準急の通過待ちをすることがある。 上り方面の朝のラッシュ時において梶が谷駅で急行または準急の通過待ちをした各駅停車が隣駅の溝の口駅に停車する時は、梶が谷駅で当該列車を追い抜いた先発の急行が出発したことを確認して開扉する。これは、追い抜いた急行電車が溝の口駅3番線に停車している間に通過待ちをした各駅停車が同4番線に進入するため、各駅停車の乗客が急行へ飛び乗ることによる急行電車の停車時間増大・遅れを防止するものと思われる。また、ダイヤ乱れ時などは先発の急行の発車がしばしば遅れるため溝の口駅に停車後しばらく開扉しないことがある。さらに、ダイヤが乱れると鷺沼駅においても同様のことが起こる。 長津田駅まで延長された当初は、下り列車は鷺沼駅で後ろ2両を切り離し、上り列車は鷺沼駅で前2両を増結するという列車があったが、1968年9月30日にこの扱いを終了し、以後は全車両が全区間運行となっている。 田園都市線の各駅停車では、東横・目黒・大井町の各線で行先表示器の表示内容を更新した際に開始された「各停」表示(行先表示器に各停と表示すること)は行われていない。 なお、大井町発着の「通勤快速」と、渋谷・半蔵門線内発着の「快速」があったが、ともに表示上は「快速」であり、ここではどちらも同じ快速として扱う。 当初は、朝ラッシュ時間帯に「通勤快速」と称して大井町行の快速が運転されていた(上り列車のみ、二子玉川園〜大井町間は各駅に停車)。また、1977年11月16日からは日中に「お買い物快速」と銘打って新玉川線直通の快速の運転が開始される。その後、1979年8月12日に行われた大井町線分離のために前日の11日をもって大井町行快速の運転は終了するが、同日までは朝ラッシュ時間帯に大井町行き「通勤快速」が、昼間時には新玉川線直通「お買い物快速」が運転されていた。12日以降は、朝間も新玉川線直通快速が運転されるようになって新玉川線直通快速は終日運転される。1983年1月22日に朝夕ラッシュ時に急行が設定されて以降もしばらくは朝ラッシュ時には快速が急行とともに運転されていた。 その後、1989年1月26日の半蔵門線三越前延伸のダイヤ改正において、平日の朝・夕ラッシュ時および土曜朝ラッシュ時は急行に統一され、他の時間帯は新玉川線直通の快速が運転される形態となった。1996年4月26日のダイヤ改正によってすべての快速が急行に移行し、快速の運転は終了した。 大井町行の通勤快速は長津田以西から運転されていたが(長津田以西は各駅に停車)、新玉川線直通快速は長津田駅発着であった。 当初、「通勤快速」と称されたのは「停車駅の変更が後になってからもしやすいように」という配慮によるものであった。 快速が急行に統合された1996年4月26日のダイヤ改正では快速の代替となる各駅停車の増発などは行われなかったため、当時の新玉川線区間急行通過駅では日中の停車列車が減便(1時間当たり快速2本、各停8本・計10本→各停のみ8本)されサービスダウンを招く結果となった。 快速運転終了後に製造された5000系や大井町線車両、東横線・みなとみらい線Y500系も「快速」の種別表示幕を有している。これを表示して運行することはないが、5000系に限っては渋谷または半蔵門線押上駅停車中に各停(黒無地)〜準急に種別表示幕を回転する際に見ることができる。色はオレンジ色に白文字である。 田園都市線と大井町線は二子玉川駅を介して一部の列車が直通運転を行っている。ここに挙げる列車はすべて同用の5両編成の列車で運転される。なお、同線用の8500系の全編成と8090系・8590系の一部編成には、田園都市線内での誤乗防止を図るため、先頭車の前面の帯を赤→黄のグラデーションにするとともに、先頭車の前面下部と側面窓間に「大井町線」を表すステッカーが貼付されている。なお、他の田園都市線の列車とは違い、主に大井町線を運転する二子玉川乗務区の乗務員が担当する(二子玉川駅での交代は無い)。 大井町〜二子玉川〜鷺沼間を運転する。大井町線の車庫が鷺沼駅にあることから、出・入庫を行う列車を活用して運行されるものである。早朝時間帯には鷺沼駅から大井町線に直通する電車が、夜間時間帯(土曜・休日は夕方も)に大井町線から鷺沼駅まで運行される。下り鷺沼行は、鷺沼駅では車庫に近い上りホームに到着する場合が多い。そのため、車内アナウンスでは同駅より先に乗り継ぐ場合は手前の宮前平駅で乗り換えるように案内がなされる。 大井町〜二子玉川〜中央林間間を土曜・休日の上下3本(上り中央林間9時台発・下り大井町発20〜21時台発)運行する。二子玉川〜中央林間間は南町田を含む通常の急行停車駅に停車し、大井町線内(大井町〜二子玉川間)は各駅に停車する。2006年3月18日のダイヤ改正から運行を開始した。 全線が大幅にダイヤ乱れを起こし、列車間隔が大幅に開いてしまった際、混雑緩和と乗客の救済を兼ねて臨時列車が運行されることがある。 また、忘年会シーズンであるために深夜帯に酷く混雑する12月の一部の日には、混雑緩和のため、定期に運転されている渋谷駅始発の各駅停車に加え、臨時列車として渋谷駅始発の下り電車の運転が追加される場合がある。 田園都市線では、こどもの国線が開業した後しばらくは行楽期にこどもの国駅行直通快速を運転するなど、こどもの国に関連した臨時列車を度々運転していた。例えば、以下の列車である。 前面上部中央の行先表示器を隠すように巨大な海賊旗のステッカーを、前面窓下の両前照灯間いっぱいに「アルカディア1号」と書かれたステッカーをそれぞれ貼付していた。 終点長津田でこどもの国線「アルカディア2号」に接続。なお、同列車は当日の定期列車に同様のステッカーを貼付したものだった。 平成に入ってからは行楽目的のための臨時列車の運転はほとんど行われなくなっていたが、その態様が変化したのは2002年末以降となる。りんかい線開業時や東武線との直通運転を開始した際に臨時列車が設定されて以降、現在は不定期ながらも年に2〜3回程度運転されている。近年は、都心での花火大会に関連した半蔵門線内止まりの列車と、東武線内の観光地へのキャンペーンに関連した東武線まで直通する列車の2種類に大別できる。全車が自由席で、指定席は設定されていない(アナウンスでもその趣旨が案内される)。 なお、ゴールデンウィークに伴う臨時列車が運転された際、田園都市線の通常の急行は南町田に臨時停車していたが、本列車は通過している。 現在の中央林間〜大井町間の急行は、当初臨時列車として運行されたこれらの列車が定期化されたものと言える(ただしダイヤは異なる)。 同日のりんかい線開業に伴い、臨海副都心へのアクセス路線としてのキャンペーンであった。そのため、「りんかい線アクセス」というステッカーを掲出した。 中央林間〜東武日光線東武日光・東武鬼怒川線鬼怒川温泉間を運転(29日(往路)は中央林間始発、30日(復路)は東武日光・鬼怒川温泉始発) 田園都市線内急行、半蔵門線内各駅停車、東武線内快速(ただし、接続を図るためおよび分割・併結を行うため、通常は東武線の快速列車は停車しない曳舟と南栗橋にも停車)で運転した。 北千住では26分、新大平下では8分のトイレ休憩が設けられた。これは定期列車を先行させるための待ち合わせでもあった。 田園都市線・半蔵門線内急行(半蔵門線内の停車駅は表参道-永田町-大手町-清澄白河-押上)、東武線内区間準急で運転した。 田園都市線内急行、半蔵門線内各駅停車、東武線内快速(東武動物公園から先の停車駅は久喜-加須-羽生-館林-足利市で運転し、通常快速が停車しない曳舟にも停車した。さらに、2006年と2007年は往路のみ茂林寺前にも停車した)。 二子橋周辺の多摩川では、毎年8月第3土曜日に多摩川花火大会が開催されることから、最寄駅である二子玉川駅・二子新地駅へのアクセスのため、田園都市線は夕方から深夜まで臨時ダイヤで運行される。 当日の田園都市線は16時から23時頃まで全列車各駅停車となるほか、渋谷駅始発の下り列車や二子玉川・渋谷駅止まりの上り列車が増発される。また、夕方の大井町駅発中央林間行の直通急行電車は運休となる。 ただし、2003年は大雨に伴う多摩川増水のため予備日も含め中止となったので、夕刻以降も通常通り急行運転が実施された。同年は東武鉄道と相互直通運転開始後初の多摩川花火大会特別ダイヤとなる予定であったが、前述の理由で中止されたので、実際東武が絡むこの特別ダイヤが初実現したのは2004年度となった。 渋谷駅では半蔵門線・東急田園都市線と銀座線を相互に乗り換えるには必ず一旦改札の外に出ることになる。半蔵門線・東急田園都市線と銀座線の乗り換えは公式には同一ホームで乗り換え可能な隣の表参道駅が案内されている。他に青山一丁目駅と三越前駅も半蔵門線と銀座線の連絡駅である。しかし、青山一丁目駅では乗り換えに階段を使わなければならない。また、三越前駅では一旦改札を出て250mほど歩く必要があり、乗り換え時間は5分程度かかる。 なお、ATC導入は旧3000形などの旧型電車を全廃するまで安全上出来なかったと思われる(営業時間中など線路閉鎖をせずに旧3000型など自動空気ブレーキ式の貫通ブレーキのみの電車を長津田工場に回送した時ATCブレーキが作動して自動緩解時に込め不足の危険があるため)。 1つの路線に3つの会社で8系列の車両が存在し、その中にも東武線直通の可否が影響するため、車両によって運用は分けられている。 田園都市線でも女性専用車が運転されている。2005年5月9日より導入され、平日の始発〜9時30分の上り全列車で実施されている。設定車両は渋谷寄りから数えて一番後ろの車両である10号車である。 なお、厳密には東武30000系については田園都市線内において10号車に相当する車両である。これは、同形式は全編成が6両編成と4両編成の列車を連結した列車であるために「10号車」という表示がないことからである。 実施区間は始発駅から東京メトロ半蔵門線半蔵門駅まで。9時30分になった時点で女性専用車両の扱いが解除されるが、ダイヤが乱れた場合はその時点で解除される時が多い。また、あくまで任意のお願いであり、老若男女問わず誰でも利用することは可能である。 この節には予定される事象を扱っている文章が含まれています。性急な編集をせず事実を確認の上投稿してください。 2005年(平成17年)2月14日より、東急5000系の一部列車に6ドア・座席格納車両(以下「6ドア車」)を連結して運転している。これは、渋谷駅のホームにある階段が近いために、特に混雑する車両である5・8号車のドアの数を通常の4つより多い6つとすることで乗降時間の短縮を図り、また平日朝ラッシュ時においては始発の長津田駅から渋谷駅を経て半蔵門駅まで座席を格納して乗客1人当たりのスペースを拡大することで混雑感の緩和を図るために導入されているもの[6]。 これらの6ドア車を組み込んだ5000系は、朝ラッシュ時に混雑率が特に高い9本の急行・準急・各駅停車に限定して運転されている(ただし検査や故障の際には一般車両で運転)が、朝ラッシュ後もそのまま運転される(一部の編成は朝ラッシュのみで運用を終える)ため日中や夜間にも運転され、また土曜・休日にも運転されている。ただし、朝ラッシュ時に半蔵門駅に到着してからは終日座席の格納を行わず、同駅を発車した時点で座席を使用することができる。 東京急行電鉄および乗り入れている東京地下鉄ではパスネット・PASMOを利用することができるが、東京地下鉄半蔵門線渋谷駅・東京地下鉄南北線目黒駅経由で田園都市線と目黒線を乗り継いだ場合はパスネット・PASMOの仕様上、東京メトロ線の運賃は計算されず、全線東急線経由で計算される。 開業前のつきみ野〜中央林間間で鉄輪式リニアモーターカーの実験が行われていたことがある。これは、同区間にすでに建設されていた掘割と軌道敷を利用して、開発中であった鉄輪式リニアモーターカーの走行実験が行われたものである。 旧新玉川線の中間駅となる池尻大橋駅から用賀駅は地下駅であり、各駅に駅カラーを設定している(色名は各駅の記事を参照のこと)。 各駅の壁面は白色と駅カラーの交互となっているが、階段よりは駅カラーの割合が多く、離れるに従って白色の割合が増えている。このことにより、各駅でのより近い階段等へ移動する際に移動すべき方向がわかるようになっている。 駅カラーの設定には「地下駅であるため乗客が周囲の風景から駅を特定できないので壁面の色を見ただけでどこの駅かすぐわかるように」との意図がある。 東武伊勢崎線より乗入れてくる30000系は製造の経緯から4+6両で運転されているため、中間にあるクハの運転台が客室スペースを埋めてしまい、特にラッシュ時は最混雑車両(5号車)に該等し、6扉車を5号車に連結している東急5000系と比較して詰め込みが非常に悪く、列車の遅延に繋がっている。対策として50050系が導入されているものの、共通運用であるため現在も平日朝上りで急行運用に就くことがある。また今後当面の間、6編成が直通運用に入り続ける模様。 田園都市線は数々のドラマで通勤路線のシーンの撮影に使われている。渋谷や表参道、青山などの若者に人気のある街が田園都市線、または直通している東京メトロ半蔵門線の沿線にあるからであると思われる。 ^ 東急電鉄ウェブサイト内の特設ページの記述より。人口予測は国立社会保障・人口問題研究所等のものによるとされる。 デスクトップ鉄のデータルーム(「パスネットの不思議」というページで当路線の問題について言及している) |
[ 809] 東急玉川線 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E7%8E%89%E5%B7%9D%E7%B7%9A
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この項目では1969年に廃止された東京急行電鉄の軌道線について記述しています。多摩川駅と蒲田駅の間を結ぶ同社の鉄道路線については東急多摩川線を、廃止後に同区間に建設された鉄道路線(新玉川線)については東急田園都市線をご覧ください。 東急玉川線(とうきゅうたまがわせん)は、東京都渋谷区の渋谷駅と、世田谷区の二子玉川園駅(現二子玉川駅)を結んでいた、東京急行電鉄の鉄道路線(軌道線)である。通称「玉電」「玉川電車」。 本項では、玉川線の支線であった砧線(きぬたせん)および溝ノ口線(みぞのくちせん)、ならびに東京都に買収された天現寺線(てんげんじせん)、中目黒線(なかめぐろせん)についても記述し、現在も三軒茶屋〜下高井戸間で運行されている世田谷線は除くこととする(世田谷線の項を参照のこと)。 玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置された。1922年(大正11年)、玉川電気鉄道により渋谷〜渋谷橋の間に天現寺線が開通すると、玉川線と天現寺線は直通運転された。1924年(大正13年)には玉川〜砧(のちの砧本村)間に砧線が開業し、二子橋の上流にあたる大蔵付近(東京府北多摩郡砧村)の砂利の輸送を開始した。このように、砂利輸送を主目的とした性格から、「ジャリ電」と呼ばれることもあった。関東大震災後の市内補修の砂利運搬には威力を発揮した。 玉川電気鉄道は路線を拡張してゆく。1925年(大正14年)、三軒茶屋−下高井戸間に支線(のちの世田谷線)を開業。1927年(昭和2年)には天現寺線渋谷橋より中目黒に至る中目黒線を、同年溝ノ口線(玉川〜溝ノ口)を開業した。溝ノ口線の開業時には、多摩川を渡る二子橋の建設費の一部を玉川電気鉄道が負担し、二子橋は橋の中央に線路が敷設された形態の道路・軌道の併用橋となった。 1934年(昭和9年)、二子橋より下流での砂利採取が全面禁止され、さらに玉川電気鉄道の経営権が東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄を経営していた五島慶太らに移って以降は、砂利輸送からは撤退し、軌道線は旅客輸送が中心となっていった。1938年(昭和13年)、玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に合併され、1942年(昭和17年)、社名変更に伴い東京急行電鉄となった。 砂利輸送から旅客輸送に軸足を移した玉川電気鉄道は、東京府世田谷区の新町(現在の世田谷区深沢七丁目・八丁目付近)に東京信託を通じて住宅地を開発し[2]、沿線住民を電車利用者とする施策をとった。溝ノ口線開業の際には、溝ノ口駅付近・久地近辺の丘陵部を開発した[3]。 また、玉川電気鉄道及び後身の東京急行電鉄は、旅客誘致の施策の一環として、明治期から景勝地であった玉川・瀬田地区に、多摩川の川魚を出す料亭や演芸場「玉川閣」(ぎょくせんかく)を擁する玉川遊園地を開設したほか、玉川第二遊園地(のちのよみうり遊園、二子玉川園)や玉川プール(現在の東急自動車学校の地)を瀬田河原に開設し、二子多摩川の兵庫島、久地の梅林、二子の桃林などとあわせて、玉川線・溝ノ口線を都心部からの行楽輸送の足としても機能させている。 玉川線の支線として開設された三軒茶屋〜下高井戸間(現・世田谷線)は、渋谷〜下高井戸間で直通運転がなされた。溝ノ口線は、1943年(昭和18年)、溝口周辺の軍需工場関連輸送に対応する輸送力を確保するために狭軌に改軌の上、大井町から二子玉川園に至っていた鉄道線である大井町線に編入され、二子橋の併用軌道の上を大井町線の電車が走り溝ノ口まで乗り入れるようになった。天現寺線は、戦前は渋谷で天現寺線とレールがつながり直通運転されていた時期もあったが、玉電ビルディング(現・東急百貨店東横店西館)の建設に伴い分断され、東京市電への運営委託を経て、1948年(昭和23年)に東京都に譲渡された。 桜新町 - 用賀間の専用軌道跡。現在は東京都道427号瀬田貫井線に転用された。正面が用賀で、高層ビルは玉電車庫用地跡に建設された世田谷ビジネススクエア、SBSタワー。 上記とほぼ同位置。桜新町まで道路中央の併用軌道で進んできた玉電は電停から以西は道路北側に移り用賀2丁目で道路を横切る形で専用軌道に入り用賀を目指した。<写真>左が専用軌道跡、右は旧大山街道。 開設当初の渋谷駅は、現在の渋谷駅ハチ公口付近の地平にあり、省線山手線のガードをくぐってハチ公口に至っていた東京市電と線路がつながっていた。玉川電車もまた省線山手線のガードをくぐって東口に抜け、直角に南下して稲荷橋から並木橋へと明治通りを天現寺橋まで進んでいた。1937年(昭和12年)、玉電ビルディング(のちの東急百貨店東横店西館)建設時にこのビルの2階へ渋谷駅が移転し、廃止までこの位置にあった。これは現在の渋谷マークシティ内、京王井の頭線と東京メトロ銀座線の線路に挟まれた場所にあたり、連絡口を介して山手線に直結していた。JR渋谷駅の「玉川口」「玉川改札」という名称は玉川線が走っていた当時の名残である。ホームは対面式2面2線で一方は降車専用、もう一方は手前に下高井戸方面、前方に二子玉川方面と乗り場が分けられていた。 渋谷〜道玄坂上(のち上通)間には碓氷峠や京阪京津線と同様の66.7‰勾配が存在していた(「道玄坂越え」とも言われる)。道玄坂上〜大橋川あたりまでは東京都交通局のトロリーバスが並走し、交差する架線部分にはデッドセクションが設けられた。 道玄坂から先はほぼ併用(路面)軌道であったが、渋谷〜道玄坂上間、玉電中里〜上馬付近、桜新町〜用賀、瀬田〜身延山別院間、支線(現在の世田谷線)の三軒茶屋〜下高井戸間に専用軌道が存在した。用賀付近の専用軌道跡は1990年頃まで東急の物置き場として静かな佇まいを残していたが、その後、東京都道427号瀬田貫井線に転用された。玉電中里、駒沢、用賀には駅舎と売店が設けられていた(駒沢は東京オリンピックに備えた道路拡張の際に消滅)。 併用軌道で大坂を下り、目黒川を渡り、大橋車庫を過ぎ、三軒茶屋の三叉路で、中央の信号塔によってポイントを操作し本線と支線に分岐。支線は専用軌道に入り、西太子堂から下高井戸へと向かっていった(世田谷線参照)。本線は、道路拡幅後は上下線とも上り車線上に敷かれた併用軌道上を走行し、中里付近から上馬まで専用軌道に入り駒沢を過ぎると旧大山街道を進み、新町付近では疎水に寄り添い、桜新町の桜並木を左手に、やがて用賀付近で再び専用軌道へ。併用軌道に戻り環八通りを横断し瀬田を過ぎて右手に多摩川の河原を眺めつつ国分寺崖線を下り、二子玉川園に至っていた。 車庫は大橋に設けられ、渡り線は大橋、三軒茶屋、玉電中里、駒沢、用賀に設けられた。用賀にも車両基地予定地が存在し、第二次世界大戦末期には空襲に備え大橋車庫の車両の一部が疎開していた。また、最後の新型車両150型の入線もここの引き込み線から行われた。大橋車庫は当初、電気供給事業も行っていた。のち東急バス大橋営業所に転用され、現在は首都高速道路大橋ジャンクション建設地になっている。二子玉川園の駅にあった留置線は玉川高島屋用地となり、駅跡には新たに新玉川線・大井町線の駅が建設された。用賀の玉川線車両基地予定地は、玉川線の廃止後に一時新玉川線構想(銀座線延伸案)の車庫として構想されたこともあったが転用されることなく、久しく空き地であった。新玉川線の起工式は1964年(昭和39年)2月、ここで行われた。この用地は、現在は世田谷ビジネススクエアになっている。 1両のみで運行される場合と、2両連結で運行される場合があった。2両連結の場合、1967年(昭和42年)より「連結2人のり」の標識が車外に取り付けられ、乗客は車両の前・最後部で乗車し、各車中央、連結寄り扉で降車していた。乗務員は運転手(1両目)と車掌(2両目)だけであった。この方式は現在も世田谷線で実施されている。 併用軌道区間が長かった玉川線は、廃止後、併用軌道区間の道路整備が進み、また、大橋車庫跡が首都高速道路大橋ジャンクション建設用地に転用されるなどし、構築物の撤去が進んだ。 国鉄山手線の玉川線への改札は「玉川改札」「玉川口」と呼ばれたが、玉川線もバス乗り場も消滅した現在でも、改札の名称は往時のまま残っている。 その他、玉電の名残として、東急バスの停留所名に旧電停の名称が用いられている例が見られる(道玄坂上、大橋、池尻、三宿、三軒茶屋、中里、上馬、駒沢、用賀、瀬田、身延山別院、二子玉川)。旧用賀駅跡には、かつて駅があったことを示す石柱が設置されている。 中耕地−吉沢間。中耕地方向を望む。線路跡は道路転用されたが、道幅は大きく拡幅されることはなかった。街路樹は二子玉川の町の花ハナミズキ。 砧線は、二子玉川を発車後、ほぼ90度のカーブを描いて玉川通りを横断、京西小学校分校(現在の二子玉川小学校)南側に存在した中耕地を経て西進、多摩堤通りと平面交差して吉沢に至り、吉沢橋で野川を渡り、東京都水道局砧下浄水場(旧渋谷町立浄水場)脇を通り、砧本村へ至っていた。概ね沿線には田園が広がっていた。 吉沢〜砧本村間の伊勢宮河原(側線あり交換可能)、大蔵の2つの停留所は戦前に廃止され、戦後、吉沢の側線も撤去された。 終点の砧本村は、開設時は東京府北多摩郡砧村にあり、停留所が設けられた付近が砧村の字本村であったことから、砧本村の名が付けられたものである。駅前には切符委託販売も兼ねた売店があり、行商が商う姿もみられた。戦前、砧本村停留所前にわかもと製薬の工場があり、砧線はその通勤の足としても用いられた。わかもと製薬跡地は現在、駒澤大学玉川校舎となっている。 廃線後は、代替交通として、二子玉川と砧本村の間に、多摩堤通りや天神森橋を経由するバス路線が開設された。 車両は玉川線と同型が用いられた。運賃は、軌道線である玉川線が線内のみの運賃体系であったのに対し、鉄道線となった砧線は他の鉄道線と通しで計算された。閉塞はスタフ閉塞を用いていた。 砧線の線路跡地はおおむね道路(一部歩行者専用)になった。中耕地停留所跡地の歩道上には、砧線が走ったことを示すレリーフが埋め込まれ、駅跡には石碑が建てられている。吉沢橋東側の吉沢停留所跡に建つクリニックの敷地には、玉川電気鉄道の社紋の入った境界標が3本残る。2007年(平成19年)に上流の新吉沢橋と合わせて架橋しなおされ新しくなった吉沢橋には、吉沢橋を渡る玉電の写真(林順信著「玉電の走った街 今昔」より転載されたもの)と玉電についての解説文の掲載された碑が設けられ、欄干には玉電のレリーフが埋め込まれた。砧本村駅跡地は整備され、現在は世田谷区立鎌田二丁目南公園と東急バス折返場になった。旧砧本村駅前広場である東急バス待合所付近には、旧線路脇の石製の柵が残されているが、かつてここが駅であったことを示すものはない。 天現寺線は、渋谷を出ると、山手線の内側、渋谷川に沿って南下し、渋谷川の橋の袂に停車しながら天現寺橋に至る路線であった。中目黒線は、天現寺線の渋谷橋から西進し、中目黒に至った。中目黒は、東急東横線中目黒駅とは接続しておらず、現在の山手通りと駒沢通りの交点付近(東横線中目黒駅の南側)にあった。 渋谷を発着する天現寺線は、玉川線が渋谷駅地平に発着していた1937年(昭和12年)まで、線路敷設の主目的でもあった砂利輸送のため玉川線と線路がつながっていたが、同年玉電ビル建設により玉川線が玉電ビル2階に発着するようになって、玉川線と分離されている。 分断以降の天現寺線の渋谷駅は東横線渋谷駅前に置かれていた。のちハチ公口にあった都電渋谷駅前電停がこの地に移り、ターミナルを形成。現在は東口都バス乗り場となっている。また山手線のガード跡は東急百貨店西館と東館を結ぶ連絡通路となっている。 1969年(昭和44年)5月11日に専用軌道のみの三軒茶屋−下高井戸間以外の区間が廃止され、同日より東京急行電鉄が代替バスを運行した。代替バスは、旧玉川線・溝の口線・砧線の区間をおおむねなぞるものと、新町〜瀬田間で玉川通り新道を進むものとが設けられた。新設された代替バス路線、及び補完路線の系統番号と行き先は次のとおりである。 旧道とは、新町〜瀬田間で桜新町を経由する玉川通りの旧道を、新道とは、同区間における現在の国道246号を指し、旅客案内上、旧道経由・新道経由との表記が使用された。 目黒区大橋にあった大橋車庫は、玉川線廃止とともに、東急バス大橋営業所に転換され、同営業所は代替バスの運行を受け持った。但し渋04と渋14は高津営業所の所管路線であった。 二子玉川園駅−砧本村間のバスルートは、砧本村方向は廃線跡の南側・玉川高島屋北側の道路を吉沢まで進み、吉沢から廃線跡が転換された道路を進み砧本村にいたるルートで、二子玉川方向は、廃線跡から外れ天神森橋を渡り多摩堤通りを二子橋東詰まで進むルートを取り、8の字型の運行形態となった。 玉川線の渋谷駅跡は、廃線後、バス乗り場に転換され、東名急行(現在は解散)・渋70・渋24などの路線バスや東急百貨店東横店と本店を連絡する無料送迎バスが発着した。終端部分はターンテーブルでバスの向きを転換する方式であった。また、渋谷駅と道玄坂中腹を結ぶ旧専用軌道跡はバス専用道路となった。渋谷駅再開発事業に伴う渋谷マークシティの建設により、現在はこのターンテーブルのあるバス乗り場とバス専用道路はほぼ消滅したが、道玄坂の玉川線専用軌道入口部分は現在マークシティへの接続道路となっている。 1937年(昭和12年) 玉電渋谷駅が、建設中の玉電ビルに移転し、。渋谷以東は東横百貨店(現在の東急百貨店東横店西館)前に新設された東横百貨店前を発着。これにより玉川線と天現寺線は分割される。 ^ 1927年(昭和2年)に中目黒線が開通した際、恵比寿駅前停留所が新設されそれまでの恵比寿駅前停車場は渋谷橋停車場に名称を変更した。1932年(昭和7年)に大東京市制施行(区部拡大・35区制施行)により渋谷区が誕生すると、渋谷町役場に渋谷区役所が置かれたため、停留所名が変更された。 ^ これにより東京横浜電鉄の路線図・時刻・運賃表から渋谷以東の路線が消えた。1948年(昭和23年)には東京都に路線の経営権が譲渡された。 サザエさん - 新町(桜新町)付近が舞台。作者の長谷川町子が居住していた地で、現在は長谷川町子美術館が建っている。 |
[ 810] 玉電の歴史〜開通から玉川線廃止まで〜
[引用サイト] http://www.setagaya-line.com/railfan/tamaden/history.htm
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世田谷に初めて鉄道が通ったのは、今から一世紀も昔、明治40年のことでした。大山街道(国道246号線)上を、玉川電気鉄道の手によって、電車が通りました。当初開通したのは、道玄坂上〜三軒茶屋間だけでしたが、同年中には渋谷から玉川(現:二子玉川)までの全線が開通し、大山街道を往来する旅人や沿線住民の足としての役割とともに、多摩川で採取された砂利を都心に運ぶ目的も果たしました。それまで鉄道が走っていなかった世田谷は、玉電の開通によって、ようやく文明開化を迎え、玉電の手によって電気が引かれ、沿線の発展に大きく貢献しました。また、玉川は行楽地として注目され、明治42年には玉川遊園地(のちの二子玉川園)が玉電の手によって開設され、乗客の誘致活動も積極的に行われました。 大正9年、都心でのコンクリート需要の増加に伴い、輸送力増強と都心への乗り入れが必要となり、全線の複線化(完成は大正12年)、軌道幅を1067mmから東京市電(現:都電)と同じ1372mmへの改軌し、車両を全て入れ替えるとともに、貨物車両の市電への乗り入れが開始されました。続いて、大正13年には渋谷〜天現寺橋間と、砂利採取拠点へ直接乗り入れる砧線を、翌14年には、現在も世田谷線として残る三軒茶屋〜下高井戸間を、更には昭和2年、渋谷橋〜中目黒間、後に田園都市線の一部となる玉川〜溝ノ口間を開通させました。 こうして世田谷の発展に貢献し、路線網を拡大させていった玉川電気鉄道ですが、昭和13年には東急の前身、東京横浜電鉄に合併され、いわゆる大東急の一部となり、玉電の名前は正式には姿を消しました。 大東急の一部となってからの「玉電」は、玉川〜溝ノ口間は改軌のうえ、大井町線(現:田園都市線)に編入、渋谷〜天現寺橋・中目黒間は東京市へ譲渡され、渋谷〜二子玉川園・下高井戸間の玉川線と、二子玉川園〜砧本村間の砧線の全長16.4kmの路線で営業を続けました。 戦後も、沿線の気軽な足として、愛されてきた玉電でしたが、昭和30年代に突入すると、モータリゼーションの発達に伴って国道246号線を走る自動車が爆発的に増え、オリンピック開催による道幅拡張の甲斐もなく、自動車に行く手を阻まれて定時運行ができない状態で、ドライバーなどからは「ジャマ電」などと罵られるようになってしまいました。その頃、国道246号線の上を首都高速道路を通し、地下には都心と多摩田園都市とを結ぶ地下鉄を作る計画が浮上し、これらをきっかけに玉電は廃止の道へと向かうこととなりました。 そして、ついに昭和44年、専用軌道であり、代替バスを運行できる平行道路がなく、廃止を免れた三軒茶屋〜下高井戸間を除いて、道路の上を走る渋谷〜二子玉川園間の玉川線と砧線全線が廃止となり、国道246号線上を走る路面電車が姿を消しました。廃止となる最後の3日間には、「さようなら玉電」と書かれた花電車が運行され、玉電の沿道には、別れを惜しみやってきた沢山の人々で人垣ができたと言います。 残された三軒茶屋〜下高井戸間は、世田谷線と名前を変え、車両の色も今までのクリームと緑のツートンから緑一色とし、車庫を大橋から上町へと移し、新たなスタートを切りました。 一方、渋谷〜二子玉川園間は、昭和52年に新玉川線として生まれ変わり、昭和53年には営団地下鉄半蔵門線との相互直通運転も開始され、都心から渋谷を経由し、国道246号線の地下を二子玉川園まで通り、田園都市線に直通して多摩田園都市を一直線で結ぶ大動脈となっています。なお、更に平成15年には半蔵門線は東武鉄道との相互直通運転が開始され、埼玉県の南栗橋と神奈川県の中央林間まで、1都2県をまたぐ大路線網に発展を遂げています。 昭和12年上期渋谷駅高架化・玉電ビル建設に伴い、市電との連絡線を撤去、市電乗入れを中止とし、玉川線と天現寺・中目黒線間を路線分断 |